【ウルトラマラソンランナー】永田務さん⑧
< 第8話 >
自衛隊を去った永田は、地元・新潟県村上市に戻って工場で働くことになった。走ることができる環境ではあったが、自衛隊時代のように練習に打ち込むことは出来なかった。しかし、それでも永田は走れることが嬉しくて仕方がなかったという。
その後、新潟県選手権で優勝したり、昔から興味があったウルトラマラソンに挑戦するなど非常に充実した生活を送っていた。
永田が初めてウルトラマラソンに挑戦したのは、2010年4月の
『チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン』の72キロであり、永田は2位になったのである。素晴らしい結果であるが、永田はその年6月に北海道で開催される『サロマ湖ウルトラマラソン』に照準を合わせていたのでさほど嬉しいという感情は湧かなかった。しかし、サロマ湖の優勝経験者に続いての2位であったことから手応えは感じたという。
しかし、日本代表を目指して走ったサロマ湖ウルトラマラソンはリタイアという結果に終わった。
その時のことを永田はこう話した。
「あの頃はスピードもあり、キロ4分ペースなんて楽だとウルトラマラソンをなめていました。70キロ以降のきつさを知らなかったのです。」
リタイアした永田は親にそのことを電話で伝えたところ「何しにいったんだ?そんなんもうやめてしまえ!」と怒鳴られたという。そして、そのときあまりにも中途半端であった自分に呆然としていて、虚しさだけが襲ってきたという。
練習の時から何もやってこなかった、という後悔だけが残ったのだ。そして、その反省を生かして翌年のサロマ湖で日本代表を目指すことにした永田は速いスピードを持続させるために練習に没頭した。その頃参加した2010年11月開催のつくばマラソンでは、3位入賞を果たしたのである。
私(筆者)は、レース後に打ち上げに参加せずに新潟に帰る彼とこんな約束をした。
『次に東京に来た時には一緒に飲もうね。』
しかし、その直後に大きな悲劇が彼を襲ったのである。